木下は急にキャンセルになった仕事のおかげで一日ゆっくり移動することができる。今日はここからたった100km隣の街に移動するだけで仕事は明日の10:00からである。真っ直ぐ行けば1時間半の電車での行程だが、中学生の時に一年間だけ過ごした街が近い事を思い出し少しより道をすることにした。
もう25年も前の事だが、都会から転校してきためずらしい木下は田舎街で人気者として受け入れられたと自負している。青く澄みきった空に心地よい風がふく初夏、木下は懐かしい街に降りたった。とても静かな駅前に立ち、まずは何処から攻めようかと考えた。
小さな喫茶店で「おお、木下じゃないか!何年ぶりだ!」
小さなスーパーで「あら!木下君じゃないの?ちょっと・・・ずいぶん変わったわね!」
小さな街のあちらこちらでスーツを着て歩くめずらしいビジネスマンに目をやると懐かしい知人と判り感嘆の声があがる・・・木下はそんな空想をしワクワクした。目の前にある駅前の商店は、まさに同級生の女の子の実家である。
「きっと彼女はこの店を継ぎ、僕の知っている人間と結婚しているに違いないぞ」木下は考えた。その扉の向こうに「あら!久しぶりじゃない。なんか、こうビジネスマンって感じね。」そんなセリフが展開される事を木下は確信している。
店は幾分くたびれていたが、もともと新しいお店ではなかったからこんなものだろうと引き戸に手をかけるがカギがかかっていて開いていない。中には商品が陳列されているのだが、よくよく観ると柵にはおよそ売り物とは思えない古い箱がならんでいる。それはネジの箱だったり、電池の箱である。ここはもともと生鮮品を扱う商店であることから店をやめて何年も経過している様相である。期待はずれの木下は街の中心にある交差店に向かう。
街の中心には大きな交差点。町役場と農協がありそこから国道に向かって商店街となっている。農協の鮮魚売り場は同級生である米田の実家だった事を木下は憶えている。
ゆっくりと農協に向かうが街はガランとしており、たった一人の老人とすれ違っただけである。鮮魚売り場には僅かな魚が並んでいるだけで客の姿はほとんど無い。木下は店の奥で魚をパックしている米田本人と目があった。米田は完全に木下を認知しただろう事がわかった。なぜなら木下の姿を見て慌てて目を伏せたからである。
木下はそれ以上近づくのをやめた。華々しく都会から転入してきたよそ者が20年以上たった今、突然この貧しい田舎町に訪れても歓迎なんかしないぜ、という空気を木下は感じたからである。複雑な思いのまま農協を後にしようとした木下は、伝票をめくりながら店内にかけこんできた女性とすれ違う。彼女は木下が昔憧れた塩坂である事はすぐにわかった。相変わらずスレンダーだが、ずいぶんと歳をとった感がありとても木下と同じ年には思えなかった。木下が振り返ると塩坂は米田と夫婦なのだろうか、鮮魚コーナーに立ち入って米田に何かを力説している。米田はこちらをちらっと気にしながら塩坂に何かを告げた。彼女は力説を止め店の奥に引っ込んだ。木下は店を出る事にした。
農協の横にはFUJITAというクリーニング店がある。ここの娘も木下と同級生であり木下は中を覗いた。若々しかった藤田の両親も今はすっかり老夫婦になっていたが、元気にアイロンでプレスしている様子が見える。木下は藤田自身がいるはずもないと思い、そのまま先にある書店へ向かった。そこの書店は同級生の村田の家である。村田は国際線のキャビンアテンダントになった事は聞いていたが現在何処で何をしているのかはわからない。村田の両親なら客商売で愛想もいい。木下の事を憶えていて村田の現況でも自慢気に話してくれるだろうと考えた。木下はとにかく誰かと話したかった。「久しぶりね」と言われたかった。ただそれだけだった。
「ひさしぶり・・・木下君でしょ」
突然、後ろから声がした。木下が振り返ると、そこには少し緊張した面持ちの塩坂がいた。
「塩坂・・・久しぶり。」
木下は歓迎されていないとわかり言葉につまった。
塩坂はさらにこう付け加えた
「なにしてんの?ここで」
ジーンズの後ろポケットに両手を突っ込んだままの塩坂の口調に、歓迎ムードは微塵も感じられない。狼狽を隠そうと木下は少し元気に子供っぽく「いや、丁度・・・出張に行く途中で、懐かしいから降りちゃったんだ。・・・電車。」といった。
塩坂は木下の電車という言葉に対し「よそ者っぽいね。昔からそうだけど。・・・じゃあ元気でね。」と手短に言った。このあたりの街ではエンジンを積んだディーゼル機関車しかないことから「列車」と表現する事はあっても「電車」とはぜったいに言わないのだった。塩坂の手はジーンズの後ろポケットからとうとう出る事はなかった。
「あ、ああ・・・」
木下はなにも言えなかった。聞きたい事はたくさんあるのに。なにも聞けなかった。
「ここに残っている俺らには劣等感があってさ。そんな恰好で来ても嬉しくないよ」
FUJITAクリーニングの駐車場に止まっている白いバンの中から上半身を乗り出し男が大声で言った。そしてニヤリと笑った。
彼は鈴木という木下が中学生だった頃の隣のクラスにいた男。鈴木は専門学校時代にも木下と何度か接触があったために比較的長く付き合った輩である。木下は今度は自然に振舞うことが出来た。
「ひさしぶりだな。・・・見てたのか?」
「塩坂が誰かと話しているから誰かな?って思っただけさ。元気そうだな。」大柄な鈴木は頭をぶつけないようにゆっくりとバンから降りた。
そして付け加えた「いいか、木下。当時の俺らは中学生だろ。今は違うんだ。街に残った俺たちには劣等感があるんだよ。でも正月に帰ってくる連中を向かいいれる心は持っているんだけど結構イヤなもんだぜ都会の自慢話は。木下なんかここに実家があるわけでもなく、ここで生まれ育ったわけでもないだろ。塩坂が話しかけにわざわざ出てきたのは上出来だぜ。米田だってホントは来たかったんじゃないのかな・・・」
木下は遠くを見た。昔、自転車に乗って遊んだ堤防が見える。
今日のようにきれいな積乱雲が見える良く晴れた日に、木下は中学生同士の仲間と遊んだ事を思い出した。
みんなが同じ制服を着て、同じ給食を食べて、同じ場所で一緒に遊んだ。同じ場所で一緒に学んだ。
ひとしきり昔を懐かしんだ後、木下は深呼吸をして鈴木にこう言った。
「ふ〜。逢えて良かったよ。じゃあな。」
鈴木はタバコに火をつけながらうなずいた。
木下は誰もいない駅の待合室で、次の列車が来るまでの午後の2時間をゆっくりとタバコを吸って過ごした。その間、駅に訪れるものは誰一人いなかった。